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いや、正体はバレバレなんだけどね(笑)
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「たかしま」自衛艦旗授与式でせっかく鶴見に出たので、久々に總持寺を訪ねてみました。
この頃にはポツポツ雨が降り出していたのですが、静寂を堪能。
大祖堂では、新到さん(まだ入門して間もないお坊さんの卵)が、明日行われるであろう行持の作法の特訓を受けていました。
總持寺は、永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山。
その永平寺での修業の様を身を持って経験した様を綴ったのが下記の本。
曹洞宗・臨済宗とも、禅宗では、「座禅」という、静寂の別名のような言葉とは裏腹に、かなり過激な指導が行われます。
つまり、ボクが見た新到さんたちは、今地獄を見ている…ということ。
總持寺は永平寺より指導が緩やか…とは言われていますが、おそらく指導を受ける方はそうは思わないでしょう(笑)。
大変なんだなぁ…という事と同時に、いきいきしているなぁ…とも。
少しだけ…羨ましくなることがあります。
仏教式で葬儀を行った場合の満中陰(四十九日法要)と、神式で葬儀を行った際の五十日祭…どちらも日数は良く似ているから、いわゆる「忌明け」に関してはこのあたりを目安に指定良いのだろうと思う。
ただ、前述の通り、仏教では本来その「忌」の期間を必ずしも「穢れ」として捉えるわけではないし、「本格的に故人の死を悲しむ」期間のひとつの目安として中国から導入され、仏教に合流したものである…という意味では、解釈は異なる。
調べている間に(どのサイトかわからなくなってしまったけれど)「仏式葬で玄関に「忌中」の札を貼るのは間違い」的なコメントを読んだのだけれども、これを「間違い」と言い切ってしまうのもちょっと危なっかしい気がする。
そもそも「喪」や「忌(いみ)」という習慣は、仏教にまつわるものではない。
「喪」は、どちらかというと儒教的な…つまり中国由来の習慣のようである。
Wikipedia:喪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%AA
Wikipedia:諒闇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%92%E9%97%87
特に「諒闇」の項目にある儒教における「礼記」の記述がそもそも「喪中」の考え方の根本におかれていたのだろうと思う。
期間については変遷があるのだろうが、現在の「1年」説の根拠はこちらにあるように思える。
この思想は、家族や、その上に連なる祖先への思いをひとつの崇拝対象とする中国の文化が濃密に影響を与えており、その死を悲しみ大切に思うこと、亡くなった父祖を偲ぶことをこの期間重点に置き、だから「あまりそれを忘れて享楽に耽らない」という習慣につながっている。
「祝い事などを行わない」はおそらくここから出ている。
片や「忌」は、日本の神様に由来する考え方。
日本の神様は古来より「死」を「穢れ」であると見なしている。
その「穢れ」には、3種類あるらしい。
Wikipedia:忌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C
先述の「仏教的な俗信」について。
あえて「仏教的」な「俗信」という回りくどい言い方をしたのは、その考え方そのものが100%仏教を典拠にしていないから。
「天国」「地獄」という考え方そのものも仏教においては後付だし、そもそも「死」というものをそこまで大掛かりに仏教は考えておらず、辛うじて仏教以前からインド思想に根づいていた「輪廻」の思想が(仏教発生時のインドにおいては一種の科学として当たり前に人の知識の中に存在したという意味で)釈迦においても受け継がれているだけだ。
仏教がインドから中国、日本と伝来される段階で(当初は人々を善導するためにだろうけれど)「悪」を犯した場合の戒めとして導入し、現代において定着したものだろうと思われる。
「習慣的、経験則的必然性」というボクの考え方はそこから出てきている。
つまり、人を良い方向に導こうとする方便として導入されたものが多い…はずなのである。
正月から縁起の悪い話で申し訳ない。
昨年11月末に身内に不幸があり、だから今年は「喪」の真っ最中。
一応お年始の挨拶と、正月飾り、お節などは一応控えている。
(まあ、ここ数年、毎年ウチのお正月は作り溜めしたカレーだけど(笑))
で、まあ地元の神社への初詣も控えよう…という話になっていたのだけれども、日付が変わる1時間ほど前に子供が「神社に行きたい」と言い出し、どうしようか少し悩んでしまった。
「子供にそこまで(喪中のしきたりを無理して)守らせるのもかわいそうだから、連れて行ってあげて」と家族にも言われたりして…。
このブログでも幾度か書いてきた通り、ボクは神社仏閣全般をめぐるのがひとつの趣味で、密教マニアでもあるのだけれど、いわれてみれば「喪中」の意味をすごく曖昧にしか捉えておらず、急に気になってきた。
子供の頃から、いわゆる喪中になった場合「1年間鳥居をくぐらない、参拝をしない」と教えられて育って来ていたので余り疑問を持たずに育ってきた。だが、身内の宗派が真宗大谷派で、たまたま今回その考え方に接したことが元で、今まで気にしていなかったその「1年間」の根拠について調べてみようと思う気になった。