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いや、正体はバレバレなんだけどね(笑)
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そもそも「喪」や「忌(いみ)」という習慣は、仏教にまつわるものではない。
「喪」は、どちらかというと儒教的な…つまり中国由来の習慣のようである。
Wikipedia:喪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%AA
Wikipedia:諒闇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%92%E9%97%87
特に「諒闇」の項目にある儒教における「礼記」の記述がそもそも「喪中」の考え方の根本におかれていたのだろうと思う。
期間については変遷があるのだろうが、現在の「1年」説の根拠はこちらにあるように思える。
この思想は、家族や、その上に連なる祖先への思いをひとつの崇拝対象とする中国の文化が濃密に影響を与えており、その死を悲しみ大切に思うこと、亡くなった父祖を偲ぶことをこの期間重点に置き、だから「あまりそれを忘れて享楽に耽らない」という習慣につながっている。
「祝い事などを行わない」はおそらくここから出ている。
片や「忌」は、日本の神様に由来する考え方。
日本の神様は古来より「死」を「穢れ」であると見なしている。
その「穢れ」には、3種類あるらしい。
Wikipedia:忌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C
なぜ日本において死が「穢れ」とみなされるようになったのか、インドにおいてはなぜ死を自然に受け入れるのか、世界中で死を不吉なものとして遠ざける文化とそうでない文化はどのくらいの割合で分布しているのか…と言ったことは短時間には調べきれないのでここでは深く語れないけれど、少なくとも日本においては「古事記」「日本書紀」の頃から日本の神様は死を「穢れ」として認識している。
死んだ本人だけではなく、送り出したその一族も、その死者を受け入れるために開いた黄泉の国(日本的「死後の世界」)の扉から黄泉の空気に触れる、という事が、遺族が「忌」の期間神事を行わない…とする根拠になっている。
ちなみに、地域や神社毎の違いはあるものの、一般的な考え方としての「神社への参拝を慎む」期間のようなものを見つけることは出来る。
「神社と神道」総合サイト:親族の喪にあたる場合、参拝を慎む期間はどれくらいですか
http://jinja.jp/modules/chishiki/index.php?content_id=132
この場合、神社への参拝を遠慮するのは、一番長い実父母の場合で「50日」という事になる。
ただし、「神宮」(伊勢神宮のこと)においては天皇家に倣って「1年」という事をひとつの基準にすると良いようだ。
ただ、そもそも考え方として、「諒闇」の解説にある通り、これは神社への参拝云々という事ではなく、本来、天皇家や神職における「神事」への関与の有無というのが本来であった…という部分は忘れない方が良いかもしれない。
そもそも、日本において「寺」が葬儀の主体になったのは江戸時代になってからの事。
日本にもともと存在していたのは神社とその祭祀(「神道」という言葉は比較的新しいものかもしれないので)であり、葬儀も(いわゆる本式な葬送儀礼が行われるのはほぼ貴族だけだったと言っても過言はないかもしれないが)当然神社の領域だった。
しかし生死をトータルに扱う仏教が流入し、勢力を拡大していく中で、神社側においてもっとも重要であった葬送儀礼を手放してしまうと仏教に呑まれてしまう…という政治的な理由から「葬送儀礼は神社で」と決定された経緯がある。
逆に、江戸時代から明治の頃になって、これまた政治的な理由で「葬送儀礼は寺院で」という流れが出来上がる。
戦国時代、一向一揆など仏教が結集した民衆の勢力が侮れない物であるということを身を持って体験した徳川家が一種の「分断策」を敢行。本願寺が東と西に別れたのもそのあたりに端を発するのだけれども、大規模な結集を避けるために寺院を「地域に密着」させようとした。
何かあった時の「宗旨替え」に制限を設け、更に個別の寺院とその寺院に帰依する民衆を密着させることで一種の住民管理を行おうとした。これが「檀家制」の発端であり、檀家と密着した寺院が民衆の葬送儀礼を行うきっかけで、神式の葬儀は貴族など制限された人物のみのものになる。
更に明治に至っていわゆる「神道」は国家のものとなって民衆と切り離され、かつ「廃仏毀釈」の流れの中で仏教の力が大きく削がれたことで、「檀家の葬儀や法要が寺院維持の中心的活動」になってゆく。
仏教が伝来した奈良時代から、明治の廃仏毀釈まで神社と仏教は非常に近い位置にいた。
政治的には対立の歴史であり、上位下位の関係は時代により変遷するのだけれど、地域の神社と寺院が何らかの関係を持って連携している「神仏混淆」の時代が続いていたわけで、その時代に、対立をしながらも教義的にお互い影響を受け合う事が多かったため、かなりの部分で「似通った教えや考え方」が存在することが多い。
「喪」の考え方が定着したり、「喪」と「忌」が混乱したりするのは、上記のような時代背景の中で、私たちの間に定着する間に起こったものであることは間違いない。
厳密にしようと思えば出来なくはないが、無理をして厳密にしようとすれば、今言われている事があっているかいないか…という不毛な議論に発展する可能性もないとは言えない。
そこで「相手の考え方」が重要になってくる。
(続く)
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