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いや、正体はバレバレなんだけどね(笑)
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先述の「仏教的な俗信」について。
あえて「仏教的」な「俗信」という回りくどい言い方をしたのは、その考え方そのものが100%仏教を典拠にしていないから。
「天国」「地獄」という考え方そのものも仏教においては後付だし、そもそも「死」というものをそこまで大掛かりに仏教は考えておらず、辛うじて仏教以前からインド思想に根づいていた「輪廻」の思想が(仏教発生時のインドにおいては一種の科学として当たり前に人の知識の中に存在したという意味で)釈迦においても受け継がれているだけだ。
仏教がインドから中国、日本と伝来される段階で(当初は人々を善導するためにだろうけれど)「悪」を犯した場合の戒めとして導入し、現代において定着したものだろうと思われる。
「習慣的、経験則的必然性」というボクの考え方はそこから出てきている。
つまり、人を良い方向に導こうとする方便として導入されたものが多い…はずなのである。
が、時にそれがエスカレートしたり、定着する民族の性向に見合わなかったりする場合がある。
仏教の場合、もともと発生したインドの段階において、「釈迦の教えにしたがって出家し、戒律を守る生活に入った上で修行を積んで悟りを得た人間のみが救われうる」という考え方がどこかに残っており、また仏教が時間を追うにつれて、カーストを否定した釈迦の思想にもかかわらず、その影が見え隠れしたりするようになる。
実際、日本で浄土系の教派が民衆の仏教として広がりを見せていた頃、既存の仏教者はその「修業をした偉さ」で大きな権力集団となっており、法然、親鸞をはじめとする浄土系教派の創始者たちは、民衆への救済の観点からその権力集団としての既存仏教のあり方を全否定するために、「俗信」を排除しようとした。
それが「既存の俗信の(ほぼ)全否定」につながっている。
が、「じゃあウチは浄土真宗だからそういうこと無視しちゃっていいの?」というと、必ずしもそうとはいい切れない。
まあ平たく言うと「相手の言い分もあるでしょ?」ということ。
この場合の「相手」とは、大きく分けて「日本の神様」と「地域」という事になる。
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