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いや、正体はバレバレなんだけどね(笑)
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正月から縁起の悪い話で申し訳ない。
昨年11月末に身内に不幸があり、だから今年は「喪」の真っ最中。
一応お年始の挨拶と、正月飾り、お節などは一応控えている。
(まあ、ここ数年、毎年ウチのお正月は作り溜めしたカレーだけど(笑))
で、まあ地元の神社への初詣も控えよう…という話になっていたのだけれども、日付が変わる1時間ほど前に子供が「神社に行きたい」と言い出し、どうしようか少し悩んでしまった。
「子供にそこまで(喪中のしきたりを無理して)守らせるのもかわいそうだから、連れて行ってあげて」と家族にも言われたりして…。
このブログでも幾度か書いてきた通り、ボクは神社仏閣全般をめぐるのがひとつの趣味で、密教マニアでもあるのだけれど、いわれてみれば「喪中」の意味をすごく曖昧にしか捉えておらず、急に気になってきた。
子供の頃から、いわゆる喪中になった場合「1年間鳥居をくぐらない、参拝をしない」と教えられて育って来ていたので余り疑問を持たずに育ってきた。だが、身内の宗派が真宗大谷派で、たまたま今回その考え方に接したことが元で、今まで気にしていなかったその「1年間」の根拠について調べてみようと思う気になった。
結果からいうと、「1年間」はいわゆるローカルルールで、一度整理してみる必要があるということがわかった。
というわけで整理してみたい。
整理の前提として、疑問のきっかけになった浄土真宗系統での「死」に対する考え方について少し説明する必要があるかもしれない。ボクもほぼ初めて「気にした」訳だし(笑)。
「南無阿弥陀仏」を一心に唱え、来世での救済を願う浄土系統の宗派では、浄土の教えに帰依した衆生(これを「門徒」といい、タテ社会の集団を形成するのではなく、あくまで阿弥陀の前で平等とされる)は、臨終を迎えると即浄土に旅立つのだから、「死」は穢れではないと解く。
だから、「特別なことは何もしないのだ」と教えられた。
正月早々葬式の話でもないけれど、通夜の晩、お香や灯明を絶やさないということも必要ないと言われたし、四十九日や百か日は、周りの意見次第だけれどもどちらかやれば良い…と説明を受けた。
一般的に仏教的な俗信では、臨終を迎えた魂は体を離れた後7日ごとに誰か(冥界十王)の裁きを受け、中間にあたる49日目に閻魔に裁かれることで(俗に言う天国に向かうにしても地獄にしても)向かう先が決まり、後に「三途の川」を渡って来世に向かう…的な話になっている。
浄土真宗系の宗派ではそれも関係ない…という説明を受ける。
「どちらを信じるか」とか、「そもそも信じるか信じないのか」という話でないことを前置きしておく。
ローカルルールも踏まえ、自分が間違えないように話を整理するためのメモ…的な話で読み進んで欲しい。
ただ、個人的には「俗信」といえども、その「俗信」が生まれ、定着する背景には習慣的、経験則的な必然性がどこかにあり、だからこそこれまで言われ続けて来たのだから、ないがしろにはしたくないというスタンスを取っている。
(続く)
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